大スターの定義を教えてくれた渡哲也さん

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大スターの定義を教えてくれた渡哲也さん
東日本大震災の発生後、は宮城・石巻市で炊き出しの焼きそばを作る渡哲也さん(右)と舘ひろし(左)=2011年4月【拡大】

 近寄りがたいけれど、とても優しい人。 渡哲也さんを取材するときはいつも緊張した。 石原プロ担当になったのは、芸能担当の記者になって約2カ月後の2008年新春。右も左も分からないまま、老舗の石原軍団を任された。 小さい頃、父が酔っぱらうと上機嫌で口ずさむ歌があった。●(=歌記号)いまでは指輪もまわるほど~。1973年にリリースされた渡さんの「くちなしの花」だ。小学校に上がる前から覚えてしまった大人の歌を歌っていた“渡哲也”を取材している不思議な感覚。「西部警察」の団長こと大門刑事が目の前にいる感動。それは12年過ぎた今も変わらない。 石原裕次郎さんの命日の墓参、石原プロの新年会、ロケ取材。何度会っても特別なオーラに緊張し、自ら駆け寄ることはできなかった。それを察するように「きょうも来てくれてありがとうございます。元気ですか?」といつも優しい笑顔で声をかけてくれた。 裕次郎さんの記念館があった小樽での取材に同行した際は、夜に記者たちを招いてすし店で食事をご一緒した。取材とは逆の立場で、渡さんは記者たちの取材秘話など聞き役に回っていた。同席した女性記者が「うに大好き」と喜ぶと、「私のうにもどうぞ」と渋い声ですすめ、あまりの格好よさに老若男女にモテる理由が垣間見えた。 2011年4月、東日本大震災から1カ月後の被災地へ炊き出しに行ったときも、渡さんの気遣いに救われた。夜中に東京をワゴン車で出発し、早朝に宮城・石巻市に不眠状態で到着。炊き出しの準備をしていた渡さんはエプロン姿で「本当によくここまで来てくれました」とねぎらい、子供ほど年が離れた記者たちに深々と頭を下げた。 当時69歳。年齢だけでなく、直腸がんなど大病を経験した体にとって、寝袋で何日も雑魚寝する生活は決して楽ではなかったと思うが、「被災地の皆さんのご苦労を思えば、大変なんて言ってられない」とほほえんでいた。 一方、舘さんが母直伝のぜんざいを作っていると、「私はやきそば担当。ひろしのぜんざいには負けないよ」といたずらっぽく笑っていた。 大地震で崩壊した石巻市の風景に心がえぐられる中、ちょっとした言葉で場を和ませてくれた。 それは炊き出しが始まると圧倒的な力となった。渡さんが汗だくでやきそばを作りながら被災者を励ますと、みんな花が咲いたような笑顔になった。家族を失った女性は「渡さんたちが来てくれてうれしい」と号泣していた。 ドラマの世界だけでなく、渡団長率いる石原軍団は困ったときに助けてくれるヒーローなのだ、と実感した。それから1カ月後、渡さんは裕次郎さんに“大政奉還”すると宣言し、軍団の名物専務だった小林正彦さんとともに高齢を理由に2代目社長を退いた。 石原プロ社長最後の大仕事として、命がけで炊き出しをしていたのだ。自分にしっかり“けじめ”をつける。それは最後まで変わらなかった。 先月17日の裕次郎さんの命日に、「俺が死んだら会社をたたんでくれ」と言ったボスとの遺言を守り、来年1月に石原プロモーションを解散することを発表した。さらに裕次郎さんと映像技術で“最初で最後のCM共演”を果たし、石原プロとして50年続いた宝酒造のイメージキャラクターを勇退した。 “心のこり”をかたづけて、1カ月もたたないうちに渡さんは天国に逝ってしまった。 「一気に安心してしまったんですか、早すぎます」。当たり前の言葉しか浮かばない。 近寄りがたいけれど、とても優しい人。それだけでなく、時間を共有するうち、自然とあったかい気持ちになって、渡哲也を取材していることに誇りを感じさせてくれる人。大スターの定義を渡さんから教わった。 国立競技場で行われた裕次郎さんの23回忌法要で、渡さんは青空に向かってファンと一緒に「裕ちゃーん!」と大声で叫んでいた。派手なことが苦手な渡さんらしく、お別れの会は行われないが、「渡さーん!」と呼びかけられるような機会を作ってほしい。 日本中に慕われた男。みんな、まだまだ渡さんに会いたかった。(芸能担当・大塚美奈)

[紹介元] 「芸能社会」の最新ニュース – SANSPO.COM(サンスポ・コム) 大スターの定義を教えてくれた渡哲也さん