講演中決死の叫びをあげた生島ヒロシ、地下の楽屋で生き埋めを覚悟したクミコ 宮城で被災した2人が語り合う「命と未来」

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講演中決死の叫びをあげた生島ヒロシ、地下の楽屋で生き埋めを覚悟したクミコ 宮城で被災した2人が語り合う「命と未来」
撮影に応じる生島ヒロシ(左)とクミコ=東京都目黒区(撮影・加藤圭祐)【拡大】
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 東日本大震災から10年を迎えた11日、地震が起きた2011年3月11日午後2時46分、宮城県で被災した2人の初対談が実現した。仙台市で講演していたフリーアナウンサー、生島ヒロシ(70)と北東へ約40キロ離れた石巻市でコンサートを開く予定だった歌手、クミコ(66)。震災後、人生の点と線を結ぶように知り合った2人が、迫り来る揺れや津波の恐怖をリアルに振り返った。(取材構成・森岡真一郎)
■「星があまりにもきれいで…あの夜は一生忘れない」
 未曽有の災害から数カ月後、NHKの震災特番で初共演以来、復興支援イベントなどで顔を合わせてきた2人。クミコは「初対面のとき、生島さんからいきなり『すっぴんでいられるんですね』と感心された」と思い出し笑い。生島は「クミコちゃんは話していて飽きない」とあうんの呼吸で対談が始まった。

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 --震災直前はどこに
 クミコ「宮城生協が公演の準備をしてくれた石巻市民会館です。地下の楽屋にいたら突然、地下鉄のゴーッというような音が聞こえて…。えっ、石巻に地下鉄!?と思ったら、すごい揺れ。人生の最期は生き埋めかぁ、と覚悟しましたね」
 生島「へえええ!」
 クミコ「1回停電した後、予備発電で明かりがついて…。助かったぁ、と思ったけど、恐怖で足はヨレヨレ。やっとの思いで外へ出たら、周りに海はないのに、津波警報がウ~ウ~鳴ってる。わけが分からなかった」
 生島「雪も降ってきたよね」
 クミコ「寒かった。あちこち地割れして水が吹き出す中、周りが『逃げて!』と裏山を指さすんです。必死で登ったら、幸運にも頂上に採石場の宿泊所が。そこに一晩、泊めていただきました」
 --津波は来た
 クミコ「上から見たら、市民会館の駐車場が水たまりのようになり、車がグルグル回っている。後で知ったんですが、近くの川づたいにきた津波でした」
 生島「僕は当日、仙台国際ホテルのホールで『東北から元気を』という題名で講演中。100人を前に話しているときグラグラッと…。『早く隠れてください! 僕はアナウンサー。死ぬまでマイクを離しません!』と叫んでました」
 クミコ「生島さんらしい(笑)」
 生島「しゃべり続けていたら停電。スタッフから制止されて、外に出たら電線が大きく波を打っている。『触るな!』と注意されました」
 クミコ「東京には帰れたんですか」
 生島「渋滞中のタクシーに頼み込んで…。ガソリンが切れる直前に5台乗り継いで15時間、翌12日朝に着いて、料金は15万円。途中、余震で橋がすごい揺れたんです。左は海で、ラジオが『津波です!』と叫んでいる。運転手さんが『死者も出たそうです』と言うので、生きた心地がしませんでした」
 クミコ「私はあの夜、裏山の頂上で地元の方がドラム缶に材木を詰め込んでたき火をして、みんなを暖めてくれた。ふと見上げた夜空にまたたく月と星があまりにもきれいで、あの夜は一生忘れないですね」
 --避難中の食事は
 クミコ「私の事務所社長がサバイバルに強い男で、余震の最中、市民会館に戻って差し入れのお菓子を持ってきた。ついでにトイレットペーパーも。助かりました。後から思えば、戻るのは危険ですけどね」
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[紹介元] 「芸能社会」の最新ニュース – SANSPO.COM(サンスポ・コム) 講演中決死の叫びをあげた生島ヒロシ、地下の楽屋で生き埋めを覚悟したクミコ 宮城で被災した2人が語り合う「命と未来」