ジャニーズ事務所を4月30日付で電撃退所した近藤真彦(56)。TBS系ドラマ「3年B組金八先生」でデビューし、昨年末に歌手デビュー40周年を迎えたばかり。俳優や歌手として一世を風靡(ふうび)し、レース活動や歌手、中森明菜(55)との「金屏風破局会見」などで話題を集めた多彩でやんちゃなジャニーズの“長男”は、後輩タレントからも「マッチさん」と慕われてきた。
振り返れば、激動の半生だった。神奈川・大和市の地元野球チームで、小学3年から野球を始めた近藤。東海大相模高で活躍していた6歳上の原辰徳・現巨人監督(62)が憧れだった。
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ところが、小学6年のとき、中学生だった地元監督の娘さんが近藤の履歴書をジャニーズ事務所に送ったのを機に、中学1年のとき事務所入りした。
中3の1979年、ドラマ「3年B組金八先生」でデビューし、共演の田原俊彦(60)、野村義男(56)と「たのきんトリオ」として活動。近藤は翌80年に「スニーカーぶる~す」でソロ歌手デビューしてジャニーズ史上初の100万枚を突破し、75年に退所した歌手、郷ひろみ(65)の穴を埋める活躍を見せた。近藤が履いていたナイキのスニーカーが若い男性の間でブームになるほどだった。
その後も「ギンギラギンにさりげなく」が大ヒットし、88年まで8年連続でNHK紅白歌合戦に出場。87年の「愚か者」で日本レコード大賞を受賞するなど、80年代のトップアイドルとなった。
俳優としても活躍する一方、84年にはレーサーデビュー。本紙の取材に「忙し過ぎて20歳を過ぎた頃から毎日のように飲み歩いていた」と独身時代を振り返っていた。
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